AI時代の敬意と位置取り
AIを使っているかどうかだけが、問題なのではありません。
AIを使えば、文章は整います。
やさしくもできます。
深そうにもできます。
丁寧にもできます。
けれど、その奥にあるものは、完全には隠れません。
相手への敬意。
踏み込みすぎない距離感。
自分のものではない表現を、自分のものにしすぎない感覚。
触れさせてもらったものへの慎重さ。
相手の体験や創造物を、素材にしない姿勢。
そうしたものは、
AIで整えた言葉の中にも、どこかに滲みます。
問題は、AI使用そのものではない
誰かの文章を読む。
作品を見る。
音楽を聴く。
講座やセッションを受ける。
誰かの世界観や思想に触れる。
その体験から、何かを感じる。
そして、その感想や受け取ったものを、AIで言葉に整える。
それ自体が、問題なのではありません。
AIを使っていても、
受け取り手としての場所を守っている表現があります。
「私はこう感じました」
「この部分が心に残りました」
「受け取らせてもらいました」
「ありがとうございます」
そこには、相手の表現を奪おうとしない姿勢があります。
自分が受け取ったものを、
受け取ったものとして扱う位置があります。
それは、敬意のある距離です。
受け取り手としての場所
受け取り手としての場所を守るとは、
相手の表現を、自分のものにしすぎないことです。
相手の体験を、
自分の深さの証明に使わないこと。
相手の言葉や世界観を、
自分の思想や発信の材料として勝手に取り込まないこと。
相手の痛みや来歴を、
自分の表現資源にしないこと。
触れたものに震えること。
影響を受けること。
感想を持つこと。
自分の内側に何かが動くこと。
それらは自然なことです。
けれど、そこには位置があります。
受け取った人としての位置。
影響を受けた人としての位置。
相手の火元を見失わない位置。
その位置を守っているかどうかが、
AI時代にはとても重要になります。
位置を越えるとき
問題が起こるのは、
受け取ったもの、影響を受けたもの、触れさせてもらったものを、
自分の深さや、自分の発見や、自分の表現として立ち上げてしまうときです。
「私もそう感じていた」
「自分の中にもあった」
「これは自分の言葉でもある」
「共鳴しただけ」
そうした言葉の中で、
元の火元や来歴が薄まっていくことがあります。
相手の表現に触れたこと。
相手の体験から受け取ったこと。
相手の言葉や作品によって、自分の内側が動いたこと。
それらを見えないものにしたまま、
自分の表現として流通させるとき、
受け取り手としての場所を越えてしまうことがあります。
本人の在り方は、AIではごまかせない
AIは文体を整えます。
言葉をやわらかくします。
文章を深そうに見せることもできます。
けれど、
その人がどの位置から言葉を出しているのかは、
最終的にどこかに現れます。
敬意のある人のAI文は、
少し整いすぎていても、不快になりにくい。
なぜなら、そこには、
相手の表現を奪わない距離感があるからです。
一方で、敬意のない位置から出された言葉は、
どれほど美しく整っていても、
どこか薄く感じられたり、
場合によっては侵入感を持つことがあります。
それは、AIの問題だけではありません。
AIを使う人間の位置取りと、
他者の火元への態度の問題です。
Shingen Ethics の立場
Shingen Ethics は、
AIを使うことそのものを否定する場所ではありません。
AIによって、
言葉が整い、
感想が書きやすくなり、
誰かに思いを伝えやすくなることもあります。
けれど、AIを使う時代だからこそ、
私たちは自分の位置を確認する必要があります。
自分はいま、受け取り手として書いているのか。
影響を受けた者として書いているのか。
それとも、相手の表現を自分のものとして扱っていないか。
相手の体験を、素材にしていないか。
相手の火元を、見えないものにしていないか。
相手の来歴を、自分の表現の中で薄めていないか。
AI時代の参照責任とは、
出典を書くことだけではありません。
他者の表現に触れたとき、
自分がどの位置にいるのかを見失わないこと。
受け取り手としての場所を守ること。
そして、
相手の表現の向こう側にいる人を、
消さないことです。